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無の操体

奈良操体の会のブログです。痛みなどの不快な症状は、実は体をちょこっと動かすだけで消すことができます。この一人操体法を身につけて、日常生活にとりいれると、「快」の極楽世界が待っています。

Q:操体法って、何に効くの?

A:一言いえば、“動くことに反応するすべて”に効きます。
◇病気の種類には関係ありません。
◇痛いと重いといった、感覚の種類にも関係ありません。
◇どこに感じるかという、自覚する部位にも関係ありません。
◇どの程度感じるかという、自覚程度にも関係ありません。
◇どこを動かすかという、作動部位にも関係ありません。

 病気や苦痛が“治るか・治らないか”といったこととは別に、
動かすことによって反応するすべてに“効きます”。

 どうも“効く”というニュアンスとは
別の捉え方が必要なように思います。



 そこで、頭の中を少し整理しておきたいと思います。
まず“効く”と言う言葉の背景。

 “効く”ということは、
広辞苑によると〔有効にはたらく。ききめがある。効能が現れる。〕とあります。

 “効能が現れる”という事は、“効果がある”ということです。

“効果”とは、
広辞苑によると、〔ある行為によって得られた、期待通りの良い結果。ききめ〕とあります。

 まず、この“ある行為”には二つのケースがあります。
◇自分自身がすること
◇相手の人がしてくれること

 このうち“自分自身がすること”に関しては、
◇多くの場合、“セルフメディケーション(自分でする治療)”
◇食事療法など、“治療的な行為以外”に自分ですること

 もう一つの“相手の人がしてくれること”にも二つのケースがあります。
◇多くの場合、専門家により“医療としてもらうこと”
◇家族や友人など、専門家以外の人にしてもらう“介助・介護支援”

 要は自分自身がすることであれ、
相手の人がしてくれることであれ、
“異常”や“病気”と呼ばれる「問題症状」に対して行われる行為を、
「人が評価」しているということになります。

 その「人の評価」は、
広辞苑には“期待通りの良い結果”と表現されていますが、
患者さん自身や専門家の“期待に対する評価”ということです。


 このようにして観てくると、
操体法が“何に効く?”と問われた時、
ついつい“○○に効く”と答えてしまいがちですが、
“効く”という概念ではとらえきれていない物事に対して、
大きく≪抜け落ちている概念≫があることに気が付きます。

 いくつかの例を挙げてみます。
【息】山でおいしい空気を吸った時、効いたとは言いません。
【食】腹が空いて食事をした時、これも効いたとは言いません。
【動】ある姿勢をして痛みを感じた時、
   その姿勢を変えて痛みが無くなったとしても、
   それを効いたとは言いません。
  ※ある動作をして痛かった時、
   痛くなくなる方へ動かして痛みが無くなった時には“効いた”
   と言う認識をします。
【動】痛みとしては感じないような症状に対しては、
   操体をして改善したとしても、
   “効いた”という認識には至らないことが多い。
【想】いやなことがあって不愉快な時、
   好きな人に出会って愉快な時を過ごしても、
   それを効いたとは言いません。
【場】大変寒い日に、
   暖かい部屋に入れていただいて暖かくなっても、
   それを効いたとは言いません。

 つまり“効く”とは、
異常や病気に対する人の関わり方の評価であって、
平常時や日常生活における“自分自身の生き方”に対する評価ではない。

 橋本敬三師が“生き方における自己責任課題”と言われる
〔息・食・動・想〕との関係性と共に、
〔気候・天候・肌身に触れたり着けたりする物事等々〕は、
“効く”と言う評価の対象外とされる。

 面白いことに、
これらの“効く”と表現される物事は、
効いて欲しいと言う“人の期待”に沿うものに対してであり、
それに“関与した物事の力”に対してである。

 それは“病気と治療という関係”における評価であり、
“元気と生き方という関係”における評価とは別であり、
人間が「科学的確認と対応」に片寄りすぎてしまった結果、
自然界における動物の「感覚的確認と対応」が
おろそかになってしまったからではないだろうか?

 この様に概念を整理してみると、
“効く”という「人の評価」とは別の概念が必要と考える。
◇“快い”と感じる「からだがする評価(反応)」の認識
◇“快い”と感じるための「自らの関わり方」の選択
◇“快い”と感じる様にする「自らの関わり方」の実践
◇“快い”と感じる様にする「相手の関わり方」を選択・実践

 私たち人間は、
何事によらず、人間を中心に考え、そして見てきた。

 そしてその考えや行動の裏には、
人間としての特権意識や、
人間が自然を制御・制圧するという考えや、
人間の都合を中心とした“判断基準(正・誤)”を堅持する姿勢が、
根強くあるのではないだろうか?

 その人間中心の考えが、
人間社会だけでなく、
自然界においても行き詰まってきているのではないか?

 異常や病気を来たして“人や物の力”を借用する時には
“効く”物事を選択する必要がある。
その確認や対応をするのに“科学”が役立つ。
ただここで忘れがちになるのは、
専門家が確認するまでもなく“超科学的な反応”をしてくれている
“いのちの働き”を忘れてみたり、
時にはないがしろにすることが問題である。

 私たちの体の中には
≪常に良くあろうとしてくれている“いのち(元気)”≫がある。
それが“変調”を来たした時には、
専門家に診てもらうまでもなく警告信号を発してくれているのである。

 その一番身近な、
しかも生まれながらにして身に備わっている“元気”の概念が、
私たちの認識や意識の中から抜け落ちている。

 私たちの多くは“不調”を来たしてしまって、
“不快”や“不都合”を自覚するようになったものに対して、
“効く?”とか、“治る?”と言うが、
それ以前に≪抜け落ちている概念≫があり、
その復活が必要なのではと痛感しているこのごろである。
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テーマ:医療・病気・治療 - ジャンル:心と身体

コメント

色付きの文字
ご無沙汰しております。急に秋(冬?)らしい気候になりましたが、いかがお過ごしでしょうか。

今日のブログ、興味深く拝見しました。ある方のブログに、「世間の基準に惑わされることなく、自分の感覚を大切にして欲しい」というようなことが、書かれておりましたが、同じようなことを感じました。

私事ですが、一昨日、40歳になりました。先生に初めてお目にかかったのは、15歳の時でした。月日の流れを痛感しています。

インフルエンザも流行っておりますし、お身体、ご自愛下さい。

  • 2009/11/07(土) 02:38:11 |
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  • かぼの助 #-
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